近況と帰国


 こんにちは、小嶋です。こちらはいよいよクリスマスシーズンです。しかし、今日はAlertのレベルが一つ上がり、アルカイダの攻撃が数日内におこるかも知れないとのことで、華やかな反面、不穏な空気も漂っています。もう4ヶ月も更新していませんでしたが、この間いくつかの出来事がありました。それらを書いておきたいと思います。

Elizabeth Smart事件とJessica Lynch報道、その映画
 今年の3月はいろいろな大きな出来事がありました。まずはもう死んでいると思われていた、Elizabeth Smartが無事に発見されたことです。この件に関しては、昨年の報告020617 最近の話題など

を読んでいただくと、事件の大雑把なことが分かると思います。眠っている子供を部屋から誘拐したこの恐ろしい事件は、静かなわが街の親たちを恐怖に陥れました。モルモンの敬けんな信者であるSmartさん一家の呼び掛けに応じて、多くのボランティアが懸命に探し、警察の厳しい捜査にも関わらず、誘拐された彼女の行方はいっこうに分かりませんでした。年が明け、もう誰もが彼女は殺されただろうと思っていた3月、Salt Lake Cityの南にある街、Sandyのバス停にいた彼女を近所の人が見つけて警察に通報して、ようやく事件は終わりを告げたのです。犯人は、「自分はキリストの預言者である」と信じている中年の男性とその妻でした。この男性は、Smart家にアルバイトに一日だけ来たことがあるらしく、それまではホームレスだったそうです。彼は、複数の妻を持つように神からのお告げを受けたといい、Elizabethを寝室から連れ出して近くの山で連れの女性と一緒にキャンプ生活をしていたそうです。Elizabethは何度も逃げようとしたそうですが、そのようなまねをすれば、家族を皆殺しにするとおどされ、できなかったらしい。Salt Lakeを離れ、San Diegoなどを放浪した挙げ句に、再びSalt Lakeに戻ってきたところを見つかったのでした。実は、この犯人二人を僕は昨年10月ごろに大学のそばにあるKinko'sの前で見たことがあります。ちょうどハロウィンの前だったので、白装束を来たカップル二人組にしか見えませんでしたが、今から思えば、彼等だったのでした。犯人が捕まってから、多くの一般人が、彼等を見かけたと言う報告をテレビなどにしていました。Elizabethを含めた3人が、昨年9月にSalt Lake Cityのdowntownで行われていたパーティー会場になぜか現れて、男はビールをうまそうに飲んでいる写真が出てきたりと、とにかくおかしなことばかりです。
 ともかく、彼女が見つかり子供の誘拐により皆が神経を使うようになってから半年たった先月、ElizabethおよびSmart家へのNBCによる独占インタビューがありました。それは、Smartさんたちがことの真実を自分達の方で明らかにしておきたいと言うことで本を出版したことにちなんで行われたのでした。テレビに出てきたElizabethは、昨年散々見せられたポスターの写真よりもずいぶん大人びて背も高くなっていました。かなり回復した様子で、喋り方は心理的に追い詰められた女性のそれには見えず、活発なふつうのどこにでもいるティーンのそれでした。強い子なのだと思いました。家族へのインタビューを見ていると、御両親の強い愛情を感じました。僕は彼等の姿を何度もテレビで見てきているので、あまりそれほど強い印象を受けなくなってしまっていたのですが、11月2日には、CBSからElizabethの誘拐から発見までをドラマにしたテレビ映画が日曜夜のゴールデンタイムに放送されました。この映画が放送されるまで、多くの批判やコメントが新聞をにぎわせていました。なぜ今になり彼女のことをテレビで放送するのか?それによって、彼女が再び傷付くのではないか?という、気遣いのものから、売名行為だ、というものまで本当に多くの話題が出ていました。しかし、映画は僕の目から見て大変ていねいに、事実だけをピックアップして作られており、よくできたものだったと思いました。この一連の騒動を通じて感じたのは、家族に向けられた親の深い愛です。父親はフロントに出てメディアの力を利用してなんとか捜査を続けさせようと努力し、母親は残された子供達をなんとかまとめようと努力します。両親のElizabethへの愛情が、最後まで希望を失わずに9ヶ月もの辛い時期を乗り越える原動力になったことが、僕には感じるものがありました。この事件、当初はモルモンのお金持ちだからテレビを動員することができたのだ、とか、彼女はテレビ映えのする可愛い子だったからここまで盛り上がったのだ、などと揶揄する向きがありましたが、今振り返ると、これはどの家庭にも起きうることで、Smart家はアメリカが最近失いつつあった家族の絆というものを見せてくれたこと、それこそが大きな話題を呼ぶものであったのだろうと思います。そして、そこには、モルモン教の「家族こそ大切にせよ」という教えが大きな役割を果たしていたと言えます。僕の周りのモルモンの家庭は、ほとんど例外なく家庭を大切にして家族は本当に仲良く暮らしています。それが保守的であろうと、一見異様に見えようとも、彼等の慎ましい暮らしを何度か目にすると、宗教のもたらす良い面と言うのはこういうことなのだろうか?と思わされますね。

 さて、同じころ、Jessica Lynchもテレビによく出てくるようになったのです。それはVeteran's dayが近付いていたからでしたが、こちらも11/2には同じように彼女の体験をもとにしたテレビ映画がNBCから放送されました。視聴率的には、Elizabeth Smart Storyの方が上回ったようです。ラボの学生さんは、このSaving Jessica Lynchという映画を、プロパガンダだといってかなり批判していましたが、僕が見た感じではそれほど嫌なものではなかったです。まあ、かなり誇張している面や理解できない面もありましたが。彼女の話は救出当初に報道されたものと、実際ではずいぶん違っていたということが最近になり分かってきたのですが、すごいなと思ったのは、彼女本人がテレビに出てきてそのことを話したと言うことなのです。彼女は11月のある晩、Late Show with David Littermanのトークコーナーに松葉づえをついて出演し、彼女の覚えていることをきちんと彼女の言葉で表現したのでした。実際には銃撃戦を戦う前に気を失っていたということがその時分かりました。一番僕が感心したのは、彼女が「I am not a hero. I am just a survivor」といったことです。僕も彼女をwar heroとして扱うアメリカの様子をどうもおかしいなと思ってみていましたが、複雑な立場にある彼女本人が、しっかりした意志を持ってこのように発言するその強さに少し感動しました。いろいろと問題の多いアメリカですが、こういう様子を報道する懐の深さもまだ残っていると言うことが、僕は嬉しかったです。彼女のストーリーを見て行くと、そこにはやはり家族の支えと言うものがありました。これは世界どこでも同じですね。

親知らずを抜いた話
 11月はじめごろ、どうも歯茎が痛むなと思っていました。それがどんどんひどくなり、腫れてきて、ものを噛むことすらできなくなってきたのです。しかたがなく、20年ぶりくらいで歯医者に行きました。すると、予想していた通り、親知らずの部分が肉を押し上げ、そこにバクテリアが入り込んで炎症を起こしていたのでした。その日は写真をとり他の歯もいろいろと見てもらって、実は結構虫歯になりかけているところがあるらしいことが分かりました。テトラサイクリン系の抗生物質をもらい、その日からしばらく飲んでいたらすぐに炎症は消えて楽になりましたが、先生曰く、親知らずは今のうちに抜いておかなければならない、とのこと。しかたなく、先日抜いてきました。3本あるので、それを一気に抜くのですが、最初の先生ではできないらしく、別の歯医者さんへ出かけてそこでまず話を聞いてから歯を抜くことになりました。全身麻酔をするので、手術の8時間前からは何も飲んではいけないし食べてもいけないと言われました。そのように準備をして、知り合いの奥様にお願いして付き添ってもらいました。手術など生まれて初めてで、大変緊張しました。しかし、先生は極めて事務的にさっさと行っていきます。台の上に座らされ、はなにチューブを入れられて、左腕には血圧をモニターするバンドをはめられ、右腕には注射針が刺されました。そしてすぐに、「これから眠り薬をいれますよ」と言われて、あっと思ったらもうそこから記憶がありません。しばらくして目がさめると、移動させられていて、すでに全ての手術は終わっていました。特に痛みはなく、唇の周りはまったく痺れて何も感じることができません。僕はもうろうとしているのと、口にガーゼをはめられているのでほとんどマトモに喋ることができません。しかも顔に包帯のようなものがつけられていて、それによりアイスパックが左右両側のほおに当てられていました。看護婦さんは、付き添いに来てくれた奥様にいろいろ指事をされていました。特に吐き気もなく、先生も大丈夫だと言うので、10時半頃(手術そのものはおそらく30分程だったでしょう)に病院を出て、近くの薬局で処方してもらった薬と、流動食を買い込みました。奥様の家で少し休ませていただき、夕方家に帰ってくると、かなり唇のしびれもとれて、出血も大分おさまってきました。その日はほとんど何も食べず、りんごジュースを飲むだけで眠りました。翌日、ほおはまだ腫れているようなので(と言ってもたいしたことはなかった)、指示されたように包帯を付けてアイスパックで冷やし、抗生物質を飲みながら安静にしていました。夕方にはなんとかチキンヌードルスープを食べることができ、処方されたマウスウオッシュで口を濯ぐこともできました。少々熱っぽかったですが、体は思ったよりも楽でした。そしてこれを書いている現在(3日目)、結構楽になり、口を動かすのも昨日にくらべるとスムーズな感じです。しかし、2本抜いた左顎の方はまだ腫れていて、右の方も何となく変な感じ。まだ本調子ではありません。でも一応今日はマカロニを食べることができました。車の運転と買い物にも行けました。熱もなく、体も結構元気です。明日からはラボに行くことも可能でしょう。経験者の人に言わせれば、これから1週間程はまだ食べるのがしんどいのだそうです。まあ、なんとかなるでしょう。

英語の話
 10月にはひとつの僕のチャレンジがありました。それは、Departmentでのセミナーをすることです。ここ2年程departmentのprogress reportそのものが行われなくなっていたので、話す機会がなかったのですが、今年になって再開されました。そのため、僕も入れてもらったのです。入れてもらった、というのは、このprogress report series (FRIPという)は、大学院生のために本来用意されたものなのです。ポスドクは自発的でないと入れてもらえません。僕は今回は自分がどれくらい成長できたのかを知りたいと思い、ちょうど論文もまとまったので(来年1月にBiochemistry in pressです)、talkの力を試してみたかったのでした。
 今年1月のBLAST meetingで少し自信もできたので、今回はもっとうまくできるよう練習にも工夫をしました。今回はpower pointのスライドはかなり早くに完成させることができました。そこで、BLASTの時のように、文章を完全暗記することをまずトライしましたが、どうもしっくり来ません。それで今回は、一枚のスライドで何を言うのかをまずはっきりさせて、それを頭に叩き込むようにしました。次に、言いたいことをできるだけ簡単な英語で言えるよう言葉を選びます。そして、スライドを見ながらハッキリと話せるように何度も練習します。それはまるまる覚えると言うよりも、自分の言葉で言えるように練習すると言う感じです。だから心情的にはかなり楽です。全く同じ言葉を言う必要がないのですから。それとこの場合は、書き言葉でなく話し言葉で練習できると言うことがプラスです。
ということで、かなり練習を積んで、笑いもとれるよう少し工夫して当日を迎えました。そして、思っていた以上に、なかなかよくできたと思います。Nativeの人にまけないくらいのものができたかなと、少し自分としては嬉しく、これが一つの目標の達成であると思えました。質疑応答はもう少しうまくできたはずですが、まあ、それでも言われた質問の意味が分からないと言うことはもうなくなりました。さすがに4年半いるだけのものはあるのでしょうね。
さて、こんなふうで少々いい気になっていたら、次のようなことがありました。それは、大活躍していたヤンキースの松井選手のヒーローインタビューがFOXで全米に放送されたときのこと。通訳の女性が間に入って、インタビューをしていました。それがたいへんもどかしいものとなってしまいました。というのは、インタビュアーの言っていることを、通訳の人が物凄く簡単に日本語にしていまっていたのです。松井選手本人も、「え?そんなこと聞いてるの?」ってな感じでとまどっていたような。でも彼なりにそこは答えていたのですが、それをまた英語になおす時にえらく簡単にしている。だから、インタビュアーの聞きたかったことが、どうも通じていないようなチグハグなものになってしまいました。インタビュアーも苦笑しています。これは一見、通訳の女性の英語力がないせいなのか?と思われましたが、そうではないようです。というのは、彼女の英語の発音はめちゃくちゃきれいだったのです。そして日本語そのものもへんな発音をしていない、つまり純粋日本人だったのでしょう。しかし問題はこの女性が野球のことをあまり知らなかったがために、インタビュアーの聞きたいことをうまく訳せなかったのではないか?と思われます。これをみていて、ちょうど同じころ上映された、Lost in Translationという映画を思い出しました。Bill Murrayが日本に来てサントリーのコマーシャルを撮影する、という設定の映画なのですが、日本語と英語のギャップがありお互いになかなかコミュニケートできない、という内容でした。この映画の面白いところは、日本語の部分が一切英語の字幕無しなのです。したがって、観客には日本人が何を言っているのか全く分からない。僕は見ていて腹の立つシーン(損な偉そうに言わんでもええやん、と思えるところ)がいくつかありましたが、でもこのギャップをだんだんに理解して行くBill演じる主人公の様子がなかなか面白いと思ったものです。で、ここでも、サントリーの撮影の際、通訳が間に入るのですが、その訳がまあひどい。実際そうなのかどうか分かりませんが、あれだと僕の方がマシではないか?と思えるくらいなのです。物凄く単純に訳してしまう。それがとても不自然なのですね。で、こちらの友人にこの2つの話をしたところ、意外とみな同じような印象を持ったようなのでした。やはり通訳と言うのは難しいですね。自分が少し英語ができるようになったつもりであっても、こんなふうにその文化的背景を理解した上でのトークになると、まだまだ難しいなと、思いました。やはり何年いても、英語は永遠の課題ですね。

帰国の話
 ここでみなさんに報告しておかなければなりませんね。アメリカに住んで4年と9ヶ月が経ち、僕も今後どうして行くべきなのか、将来の決断をする時期になりました。今年のはじめ頃からそのことに関してはずいぶんと悩み考えてきました。研究をすることが自分にあっているのかどうか、かなり悩んだ時期もありました。教師のみちを進むべきかどうか考えたりもしました。アメリカに残るのかどうか、他の国へ行くのか、などたくさんの選択肢がありました。ずっと考えてきて、ボスのDavidとも何度も話をして(とくに2月のKeystone symposiaのころは)きました。こちらの友人達ともよく話をしました。同じころからアメリカに滞在して、長い付き合いであるMさんとは、いろいろな思いを交わしたりもしました。学生時代の後輩たちがつぎつぎとアメリカにやってきて(来年春にはもう一人が渡米予定)がんばっている状況や、同じころやってきた学生時代の友人が次々と帰国する一方で、ある友人はアメリカでポジションを見つけて自分のラボをしっかりと構えていたりすることを思うと、自分の考えもかなり揺らぎました。このwebを通して知り合った方の中にも、海外でのポジションを真剣に考えておられる方もいらして、彼等のメールに答えていると自分の考えがなかなかまとまらなかったりもしました。ラボに最近入って来たインドの学生さんなどは、家族もアメリカにつれてきたいと思っているところもあり、考え方もいろいろ多彩だと改めて思ったりもしました。その中で、夏頃、やはり自分は日本で仕事をしたい、という思いが強いことを認識しました。アメリカが嫌いというわけではないのです。アメリカでやっていけるかどうかも、実はこの秋の自分のやってきたことなどを考えれば、言葉のことも含めてそれほど不可能なことではないと思えたりもしました。何より、もうすっかりアメリカの生活に慣れ、便利さに慣れ、心地のよさに慣れてしまった今、逆に日本にあわせられるのかどうかという不安の方があったりもするのです。しかし、自分の中にある「日本人」というものは、やっぱり消えないのですね。とっても中途半端なのです。実際、アメリカで独立したいと思う場合、かなりの決断と勇気が必要になると思います。僕はそこまでできるのだろうか?というとそれがなかった、ということが、帰国を決断した最大の理由のひとつなのです。アメリカの良さも悪さも十分に感じ、アメリカに住むことが楽しいと思えるようになっているだけでは、実際に心を決めて住んで行くには足りないと思えました。家族のことや、結婚のこと、子供の教育のこと、能力のこと、いろいろと考えると、やはり自分はその器ではないと思えます。だけれども、せっかくの海外の経験を無にはしたくない。海外にもどんどん出ていけるような、フットワークの軽い研究者になりたい、それならば何も国にこだわることはないのかも知れない。ホームである日本をベースにして、共同研究や学会などでどんどん海外にいけるような、そんな自分になればいいのではないか。そう思うようになりました。これはまた言い過ぎかもしれませんが、日本の学生さんたちを、もっといろいろな環境に接しさせてあげたい、これからは日本に閉じこもるのでなく海外とのつながりを十分意識した上で仕事をして行かなければならない時代になるのだから。そしてそれを伝えていけるのは、海外で経験を積ませてもらえた自分達なのではないか? 学術振興会の意図もそこにあったのではないのか? そして結論として帰国となったのです。
 8月ごろに帰国の方向で行くことに大体決めてから、論文の準備などをにおわれながら、10月になりようやく本気で職を探しました。しかし、なかなか助手の職はありません。そこで、若手研究者人材データベースに登録してみました。そして、自分は将来どうしたいのか? ということを考えました。そこで悩んで至った結論は、やはりべん毛のラボで仕事をして行きたいと言うことと、まだ自分の持つ技術はぜんぜんラボの立ち上げには足りない、ということだったのです。それで、protein chemistryをやりたいと思ってきた最近のことをふまえて、それができそうなポスドク先を探しました。11月末には中学の親友の結婚式があったので、それにあわせて、合計6つの研究室を訪問することに最終的に決めたのです。アメリカにいて日本のことが良く分からない自分には、先ほどあげたJRECINのデータベースは大変助かりました。そして、改めて、ポスドクならばまだたくさんのポジションがあいているという、何となくいびつな日本の構造もわかってきたのです。
 そして、先週まで2週間程日本に帰国してあちこちを回ってきました。ほとんど一日も休みのないとんでもなく忙しい日程でしたが、無事に日程を終え、最終的に大阪大学の研究室のポスドクのポジションを得ることができました。帰国の時期は来年の春頃になりそうです。

というわけで、このweb siteで留学生活を報告するのも、後わずかになってきました。日本に帰国後は、おそらく簡単に短くしてまとめておき、オール英語のサイトとしてこちらでできた友達に近況を知らせるサイトを立ち上げようと考えています。

今回はここまでです。

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