帰国狂想曲


 みなさんごぶさたしています。小嶋です。前回お話したように、帰国を決めたわけですが、その後いろいろと事情が変わって、3月1日付けで日本の独立行政法人・科学技術振興機構に就職となり2月29日に完全帰国しました。帰国をこの日に決めたのが1月中旬だったので、帰国に向けての準備はかなり忙しく、本当にギリギリで帰国してきたと言う感じです。帰国してからも、就職先の研究室が大阪大学の新しいビルに引っ越すために、こちらも引っ越しで大変でした。僕自身、大阪大学までは実家から通うのがかなりしんどいので、結局引っ越すことになり、それがまた大変で、この週末になりようやく大体のことが終わってほっとしているところです。今回は、前回の一時帰国の後の出来事をまとめてみたいと思います。また、後1回更新を行い、その時にUtahで出会った方々へのお礼を兼ねた留学についてのまとめをしたいと思います。幸いなことに名古屋の時の先生が、このwebを当分の間残しておいて構わないと仰ったので、そのままにしておくことにしたいと思います。なお、英語による自分の日本での生活をまとめたwebを別のところにセットアップする予定で、こちらも御覧ください。

クリスマスの記録的な大雪
 前回の更新をしてすぐ、クリスマスを迎えましたが、昨年のクリスマスはSalt Lake Cityに大雪が降りました。ここ10年程で一番の積雪量だったようです。僕はクリスマスイブは特に予定がありませんでしたが、クリスマスの日には2家族からお誘いを受けていました。どうもイブの日から天気が怪しかったので、タイヤも減っていたこと、サンクスギビングの時に滑りまくって恐い思いをしたので、スノータイヤをはめることにしました。昔all weatherのタイヤを買った、Discount tiresに行ったら、すでにお店は閉まっていたので、SEARSに行きました。1時間程かけて交換してもらって、$458.29なり。Snow tireにすると、滑りはall weatherにくらべると減ります。細かい溝がタイヤに彫られていて、これが氷や雪による影響を減らしてくれるようです。高い買い物ではありましたが、これが後でとても助けてくれることに・・・
 25日は朝からみぞれのような湿った雪が軽く降っていました。毎年呼んでくれるLindseyの家にお昼向かう時には、道路は濡れているだけで大したことはなかったのですが、Lindseyの家を五時半頃退出して、次のJulieの家に向かう時にはかなり激しく雪が降り始めました。Lindseyの家が、West Jordanにあり、Salt Lake valleyの南西の端だとすれば、Julieの家はSalt Lakeから北に30分程行ったBountifulという街にあり、Valleyを南北に縦断しなければなりません。恐かったので、freewayを使わず下道でゆっくり行きましたが、それでも初めての道を通るのでかなり恐かったです。結局freewayなら30分程でいけるところを、1時間程かけてドライブし、Julieの家には7時過ぎに着きました。彼女の家族は、長年Cross Culture Clubをボランティアでオーガナイズしてくれていて、外国人に対する理解が大変深いです。彼等は敬虔深いキリスト教の信者なので、遊びに行った時はお食事をいただいた後、聖書を一緒に読み、賛美歌をたくさん歌いました。その日来ていたのは、古くからの友達のKoreanの夫婦と、初顔合わせのTaiwaneseでした。厳かな、とってもリラックスした楽しい夜でした。10時過ぎになり、そろそろ帰ろうと外を見ると、外はもう真っ白で僕の車はすっかり雪に埋まってしまっています。さらに困ったことに、雪はかなり激しく降り続けていました。これは困りました。このままでは僕の自宅まで、1時間近くはドライブしなければなりません。Julieが言うには、こういう日は下道よりも、かえってfreewayの方が整備されていて危なくないから、絶対その方がいいとのこと。覚悟を決めて高速で帰ることにしました。I-15にBountifulの入り口から入ると、確かにみなさんゆっくり走っていて、道路は下の道よりは雪の状況はマシに見えます。しかし・・・シャビシャビなのです。でも、僕には「スノータイヤ」があるではありませんか! おそらく前のすり減っていたall weatherでは死ぬ思いをしたであろうこの道も、スノータイヤのおかげで、思ったよりも快適に進んで行きます。もちろん心臓は相変わらずバクバク言い続けていますが、安心感と言うのはこういうことを言うのでしょうね、不思議と気持ちは座っているのです。一度大型トラックが僕を追いこす時に、シャビシャビの雪を跳ねて行き一瞬前が全く見えなくなったことがありましたが、それ以外は下道におりても滑ることがなく、さらに心配していたアパートの前の坂も楽々登ることができて、無事にアパートに到着。Thank GOD! もうとにかくその晩は無事に帰れたことに興奮して、デンマークのMomoにあててメールを書きました。
 そして次の朝。普通ならある程度雪掻きが済んで、道路は運転しやすくなっているはずなのですが、朝から激しい雪が降り続けました。大学へは仕方なくTRAXで行くと、案の定誰もいません。ふだん通り仕事を始めると、隣のビルにいるFacultyの先生が、「このままだと状況が悪くなるばかりだから、今日は帰った方がいい」というのです。それで12時頃TRAXで家に帰ろうとすると、そのころにはもうひざ近くまで雪がつもってきていました。TRAXは平気で走っていますが、その横をほとんどの車がスリップしたりスピンしたり、雪に突っ込んで動けなくなったり、大変なことになっています。やっとの思いで家に帰ると、停電していました。上の階の若い御夫婦は、ろうそくを買いに歩いてマーケットへいくといいます。この時点で、隣のブロックにあるコンビニなどは停電のために全く機能しなくなって店を閉じてしまっています。僕は仕方がなく、寒いので眠くもないのにベッドに入ってぼんやりしていました。いつのまにか眠ってしまい、気がつくと4時頃になっていて、電気も回復していました。僕らはまだラッキーだった方で、他の地区ではその後数日間全く電気無しだったようです。停電の理由は、雪の重さに耐えかねた木が、電線に乗ってしまい、断線してしまうことだったようです。その後あちこちで、折れてしまった大きな木を見かけました。26日金曜日の夜まで雪は降り続き、ひざ近くまでしっかり積もって大雪は終わりました。翌日の土曜日には晴れ間が見られたので、あちこちで雪掻きが行われました。僕の車もスコップを借りて2時間程かけて掘り起こしました。ほんと大変でしたよ。さらに1週間程経つと、ようやく歩道を無事に歩くことができるようになりました。そんな感じで、町中が大騒ぎになったというわけでした。

2004年お正月
 今年のお正月は「日本人」していました。元日はT先生御一家のお宅に呼んでいただき、Y先生御夫妻、I先生と一緒におせちをいただきました。僕以外はみなさんお医者さんなので、これまた興味深い医学系のお話を聞かせていただきました。ちょうど日本で「白い巨塔」を見てきたところだったので、その話も少し出ました。御家族でお越しになっているみなさんなので、それぞれの悩みはまた僕とは異なるもので、勉強になりました。また、先生のお宅は本当にきれいに整とんされていて、またちょっとした心遣いが大変細やかで感動しました。一人であまり細かいことにこだわらない自分からすれば、本当に心地よいところで、すごいなと思いました。
 2日にはO先生御夫妻に呼ばれて、M先生、S先生と一緒に今度はO先生のおせちをいただきました。この日はお子さんのいない集まりだったので、1時半頃までお邪魔してしまいました。O先生の奥様がお料理が上手で、またO先生ととっても良いコンビネーションでホストをしてくださって、至れり尽せりでした。本当にすごく楽しくておいしくて、あっという間に時間が経ってしまいました。前日とは違い、理学系研究者の集まりだったので、就職の決まった僕には就職活動のことで質問が集中しました。みなさんアメリカを十分にエンジョイされている方々ばかりですが、いつ帰国するのか、帰国でいいのか、などお互いの悩みは共通するものがあり、話は尽きません。一方で面白かったのは、アメリカにどうやって慣れてきたかが、お互い結構違っていたこと。まあ皆さん僕より少々年が上なので、達観されているところもあるのでしょう。でも、僕が時間をかけてゆっくりと重ねてきたことや、ずいぶん乗り越えるのに時間のかかったことなどを、みなさん僕程苦労されなかった、いや苦に思わなかったようです。パーティに行く時、話のネタをいくつも準備して緊張しながら出かけてきたこと、会話が続くようにあれこれ気にしてきたこと、なかなかアメリカ人の友達ができなくて、ずっとコンプレックスに思っていたこと。それらは、この日集まった皆さんは、おそらくいろいろ苦労されてきたのだと思いますが、僕程ではなかったようなのです。二人で来ていたり、性格の問題もあるのでしょうね。すごい人はいっぱいいるんだなぁとその時思いました。

 アメリカでは年があけるとすぐに仕事です。元旦だけが祝日で、次の日から平常運転なのです。大学も春のセメスターがすぐに始まり、大学は学生さんで活気に溢れます。1週目の中ごろになり、日本の方も仕事始めとなるので、それで僕も懸案だった事柄の連絡をとれるようになり、帰国の時期に関する重要な事項を再確認することになりました。2週目にはこちらのボス、日本の新しいボスが同じアメリカで開かれている学会で会ってくれて、僕の帰国時期を確認してくれて、3週目には正式に2月末に帰国、3月1日着任ということになりました。5月帰国を考えていたのに、ずいぶん早くなってしまい、こちらも大忙しになってきました。実験をどこまで進めておくのか、5月1日に予定されているシンポジウムに参加することはどうするのか?など、決めなければならない事項をささっと決めて、それからが大忙しの帰国準備となりました。このところ、運動もしていて(次回書きます)、体調も良かったので、体に関しては自信があり、またできるだけ仕事をきっちりケリをつけておきたかったので、結局帰国の2日前まで実験をしてしまいましたが、それは以下に書きますが、大間違いでした・・・ めちゃしんどかったです。では、以下にどんなことをしてきたかを書いて行きましょう。

帰国から箕面への引っ越しまで、概観
 ここでは、帰国までのスケジュールを書いてみます。実は実験もしていたので余りにも忙しく、時間の過ぎた今となってはあまり覚えていないのです。

1/26 (Mon): 車をコズメティックに出す。トランクのところが凹んでいたのを修理@Rick Warner
1/29 (Thu): Rick Warnerで車の引き取り。修理代 $620.22
1/31 (Sat): 車を洗車し、広告用にデジカメで写真を撮る。
2/1 (Sun): 引っ越しでいらなくなる個人の持ち物@アパートのリスト作成。前日撮影した写真をもとに車の広告を作成
2/2 (Mon): リストおよび車の広告を日本人向けにe-mailの添付書類で送る。友人に頼み大学内および店に広告を貼る。
2/4 (Wed): 買い手に異常がないことを見せるためにディーラーにて車の点検。$259.74 その後同じディーラーでevaluateしてもらう($3400といわれた!)
2/5 (Thu): Salt Lake Tribuneに$70.60/18日間の約束で車の広告をclassifiedに載せる。start from 2/7
2/6 (Fri): Uの女子体操の試合をY先生御夫妻、Tさんと見に行く。これが最後の大学スポーツ観戦となった
2/7 (Sat): Mさん、Sさん、Oさん御夫妻とお別れ会@Cafe Madrid
2/8 (Sun): 今はオクラホマで働いているTさんがSLCに来られたので食事会。Tax returnの書類を作成
2/10 (Tue): なぜか車のカギがおかしくなったので、修理に出す。$ 340.23。Tax returnの書類を提出。
2/13 (Fri): 僕のwebを見たシアトルの日本人大学院生さんがUをポスドク先に考えているとのことで、夕方から案内をする。
2/14 (Sat): ソファー(小)を引き取ってもらう。Mさんのforesterで運ぶ。
2/15 (Sun): かつてのLab mateのGinaと食事。Yahoo.com ($24.95)とautotrader.com ($25.00)に写真付きの広告を載せる。夜Sさん他とお別れ会
2/16 (Mon): Lindseyが家へ呼んでくれた。彼の家族とお別れの夕食会。この日、Tribuneの広告を見たJonが電話を留守電にくれた
2/17 (Tue): 歯医者。Jonと彼のお父さんに6:00 pmにCity courtの前で待ち合わせして、車を見てもらう。翌日に返事をもらう約束をする
2/18 (Wed): Jonが$5800なら買うという返事をくれた。即OKし、そのかわり引き渡しは次の月曜日の朝に。
2/19 (Thu): 歯医者最後。ガス、電気、電話、インターネット、クレジット、車の保険、新聞、引越屋に電話。
2/20 (Fri): Toastmasters clubラスト。Speechを行う。AAAに国際免許をもらいに行く。夜はIさんの家に呼ばれる。
2/21 (Sat): Blair labのfarewell party@Mark's house
2/22 (Sun): たんす、テレビ、DVD、コーヒーテーブル、くつばこなどの引き取り。
2/23 (Mon): 朝に車引き渡し。細かいものをDIに寄付。Markに頼んで夕方に大きな家具などの荷物を出す。
2/24 (Tue): Koushikの家に呼ばれてDinnerをいただく。
2/25 (Wed): 日通の方に来てもらい輸送費の見積もり。段ボールをもらう。夜SLCの日本人の皆さんと最後の飲み会@Squatters
2/26 (Thu): 最後の実験。ラボの荷物の整理。夜Mark, Sさんと映画Passion of the Christを見に行く
2/27 (Fri): 午前中にモデムを返しにComcastへ。その足でValerieに会いに行く。昼に日通が荷物の引き取り。ラボの片付け。あいさつ。銀行で送金に失敗。家の掃除とカギ引き渡し。深夜までかかってラボの片づけ。夜はゲストハウスに泊まる。
2/28 (Sat): 朝6時にLindseyがゲストハウスにpick upに来てくれて、大量の荷物とともに空港へ。すごい雪。LAのtransitの際にかつてのLab mateのLaithと会う。
2/29 (Sun): 1時間半程遅れて関空着陸。税関で帰国のため荷物が船でくることを説明。日通の事務所で書類仕事。南海と近鉄で家へ。夜10時に到着。

3/1 (Mon): 朝9時に新しい職場へ。書類仕事。E-mailのセットアップ。夜はグループの歓迎会@西大寺
3/2 (Tue): 休みをとって大阪大学吹田キャンパス近くの家を探しに行く。生駒市役所に住民票を取りに行く。国外転出届のおかげで住民票なかったが、すべてその場で解決。
3/17 (Wed): 電話によりガス、電話、電気など箕面市のアパートのセットアップ。Utahからの荷物は4/1に生駒の実家でなく箕面の新住所へ送ってくれることに。
4/1 (Thu): 箕面市のアパートへ引っ越し。

車の売却
 やはり帰国関連で一番やきもきしたのは車の売却でしたが、終わってみれば非常にすんなりと終わりました。帰国を決めたらすぐに車をきれいにして(凹んでいたところがあったので)、Ken Garff Mitsubishiでメンテナンスをしてもらいました。オイルなど交換をして完璧のはずが、なぜかドライバー側のカギが急に開かなくなり、たいへんでしたが、それも直しました。ブルーブックや、インターネットで車の値段を調べたところ、買った時$12,800もした99 Garant ESが、すっかり値落ちしていました。個人売買で$7,000から、dealerにもっていけば$5,000からだそうです。それでも強気で広告には$8,000と書いて貼り出しました。Utahに5年いたこともあって、すぐに買い手は見つかるだろうと思っていたら、とっても甘かったです。日本人で欲しいという人はおらず、最近Biologyに来たフランス人ポスドクは免許がなくて買えず、関心を最初示してくれたKoreanは、値段が高いので引き下がり、ラボのメンバーも知り合いで車を欲しい人はいなかったので、「知り合いに売る」ことはできませんでした。しかたなく、上に書いたように車をきれいにしたあと、デジカメで写真を撮り、広告を作ってラボの仲間や友人に頼んで、周りに貼ってもらいました。数日なんの連絡もなかったので、Salt Lake Tribuneのclassifiedのところに4行の広告を載せてもらいました。この時まだ$8,000にしていました。しばらく放っておきましたが、やはり何の連絡もなかったので、しかたなく値段を$6,000にしてTribuneの広告をだし直し、さらにYahoo.comやautotrader.comに広告を出しました。すると値下げしてすぐ連絡がくるようになりました。Yahoo.comはなかなかよくて、サーチで僕の車を見つけた人が4日間で140人、実際に詳細を見てくれた人が32人、連絡をくれた人が1人(メールで)。Autotrader.comからも、車を見たいという方から電話の連絡がありました。これらinternetがいいところは、メールで連絡をとれること。僕は連絡先を自宅にしていたので(携帯がないため)、自宅に留守電が結構残っていてもすぐ連絡をとれないのです。また、何人実際にヒットしたかを教えてくれるので、はげみになります。ただ、結局僕の車を買ってくれたのは、新聞広告を見て誰よりも先に電話で連絡をくれた、Jonathanという近くの街に住む男性でした。彼は21歳ととっても若くて、最初電話でコンタクトをとった時は大丈夫かなと思いましたが、会う約束をしたら、お父さんと一緒に見に来てくれました。自宅の連絡先を教えてくれて、かつお父さんは身なりのきちっとした感じで、Jon自身もとても素直な好感の持てる男性でしたので、安心して取り引きをすることができました。こちらの条件を話し、帰国が迫っているのでぜひ売りたい、ということを説明しました。最終的に彼は$5,800なら買う、というので、引き渡しを最終週の月曜にし、かつCasher's checkで1回払いにしてもらうことを条件に合意に達しました。実際に引き渡し当日に行ったのは、

1)ダウンタウンで待ち合わせし、一緒に僕の銀行(Wells Fargo@University office)へ行く。
2)まず彼の持ってきたCasher's checkを僕のchecking accountに入金。確かにお金が入ったことを一緒に確認。
3)Utah Certificate of Titleの裏面Aにodometerのnumberを記入(43,165 miles)。Sale price, Date of Sale, 名前と住所、サインを書き、Jonに渡す。僕はTitleのコピーを作っておいたので、同じように自分のところ(seller)を記入し、Jonに頼んでBuyerの必要事項に記入してもらう。その記入済みコピーを自分用に保存。
4)昨年のregistrationの時に作成した、Emission test resultsと、current registrationをJonに渡す。
5)Jonの準備してきた、Bill of Sale($5,800で僕が売ったことを証明する一筆)に僕がサインして渡す
6)車のナンバープレートを2つともはずして、車をJonに渡す。

なんとたったこれだけです。Jonが自分でdepartment of motor vehicleのオフィスに行ってくれるので、こちらはこれ以上Paper workをする必要がありません。車にかかる税金は、彼がofficeに行った時に彼が支払うので、売った方は何もする必要がないのです。記念にナンバープレートだけ家に持って帰りました。今も、部屋に飾ってあります。ちなみに、車の広告はこんな感じでした。

引越関係
 Utahからの引越は、すでに帰国した方からお話を伺って、結局日本の業者さんに頼むことにしました。安さでは、USPS(アメリカの郵便局)の船便が良いようですが、ものが壊れず、紛失せずに届けることを考えると、少々高くても日本の引越業者が良いとのアドバイスを受けました。Salt Lake Cityには、クロネコヤマトさんと日通さんがofficeを持っています。僕の場合は、両方に電話をして、日程的に都合の良かった日通さんにお願いすることにしました。日通さんには「小さな引越便」というサービスがあり、どうやらそれで送ってくれたようです。クロネコさんも日通さんも無料で見積もりに来てくれるので、その見積もりの額で判断するのが良いでしょう。僕は急いでいたので、見積もりの日にとりあえず段ボールを10個とガムテープを3つ持ってきてもらいました。余った分は持って帰ってくれました。見積もりの日までに、少なくともこれだけは持って帰りたい、という分をリビングのまん中に固めておいておき、見てもらいました(もちろん箱詰め前)。5年分あったので、最初それはすごい量でしたが、かなり捨てたりあげたりして減らして行き、結局、見積もりをしてもらった時よりもかなり減ったと思います。見積もりの結果、船便で家まで運んでもらって$1,600ということになりました。少々高いかなと思いましたが、仕方がありません。水曜日に見積もってもらい、残り2日でさらにものを取捨選択して段ボールに詰めて、結局大きな段ボール6箱となりました。段ボールはかなりしっかりしていますが、一つ一つが物凄く重くなってしまいました。それを、見積もりに来てくれた日通の方が一人で2階の僕の部屋から車まで持っていって積んでくれました。ここからは、しっかりした木のパレットに乗せてもらい、船の中でもしっかりと固定されるので、中のものが壊れることはないとの説明を受けました。もしも荷物の数が少なければ、航空便の方がやすい場合もあるのだそうですが、僕の場合はそれほど少ないわけではなかったので、船便となりました。日通の方は日本人で、こちらに駐在されているのだそうです。とてもていねいな応対で、安心して任せることができました。
 さて、荷物の積み出しの日に行ったことは、各段ボールに何が入っているのかのリストと保険料を書いて提出すること、クレジットカードで支払いをすること、日本に入国する時の手続きや保険の説明を受けること、安全証明書の記入(パスポートのコピーと顔写真のコピーが同時に必要)でした。荷物は僕がUtahですでに使っている個人のものなので、輸入にはならず関税はかかりません。ただ、そのことを本人が入国する際に申告しないといけないので、その手続きのための書類を書きました。いずれも、日通さんがすべて準備してくれて、僕は書くだけです。それで、アメリカを出国し、関西空港に到着した時、税関でその旨を説明し、日通さんのカウンターへ出かけて手続きをして終わりです。さらに僕の場合は、帰国してすぐに、新しい勤め先の大阪大学の近くにアパートを借りることに決めて、その住所と入居日が決まった後、荷物の配達先を実家から箕面市の新住所に変更することが可能でした。おかげで、実家で一度荷物を引き取って、再度別のお金を払って新しいアパートへものを送るという二度手間を省くことができて、大変助かりました。船便の良いところは、こうした融通がきくところかもしれません。まあ、今回は同じ関西地区だったから可能だったのかも知れませんが。実際、4月1日に新しいアパートに入居した時、きちんとすべての荷物が中身もしっかりこわれずに届きました。Utah行きの時に、Sal便を使って半分が無くなったことを思えば、少々高くてもこれで良かったと思いました。

 ところで、日本へ送る荷物以外のものは、2月1日にまとめてリストにし、この5年間に知り合ったSalt Lake Cityの日本人の皆さんに送りました。本などもただであげたりして、かなりの量が捌けました。ソファーの小さなもの、テーブル、たんすなどは友人の大きめの車(フォレスターやラブ4)に乗せてもらいました。またちょうど引っ越してきたばかりという、Koreanのポスドクの方がベッドのマットレスとボックス、ダイニングテーブル、大きな方のソファーなど一式引き取ってくれたので、それは、いつも世話になっている大工のMarkに頼んで彼の大きなトラックに乗せて運びました。Markとの話は次回載せましょう。しかし、こうして月曜日に大物がさばけたのですが、それでも部屋は全く片付かず、大量に残していた新聞や雑誌、調味料などの食品が出てきました。新聞と雑誌は必要なものだけ選択して、残りは一気に捨てました。まだ使えそうな電化製品などは、Deseret industryという、寄付品を集めて売り出す大きなショッピングセンターのようなところに持って行き、ただで引き取ってもらいました。逆にいえば、Deseret industryへ行けば、安く生活用品が手に入るということです。ここは、Salt Lakeに数カ所あり、運びにくい大きなものの場合は電話一本で引き取りに来てくれます。その他、まだ封の開いていない缶詰めやボックスの食料は、ラボのJung-Hoonが所属する教会に寄付し、調味料などの食品は、知り合いの女性陣に大量に引き取ってもらいました。実際この荷造りや部屋の掃除などは本当に大変で、最後の週は寝ることもあまりできませんでした。

たくさんのお別れ会と最後の日
 こんな感じで、本当にばたばたしながら帰国してきたわけですが、帰国を決めて2月に入ると、それはもう本当に忙しく、いろいろな人に挨拶をしたり、会いに行ったり、食事に呼ばれたり、お酒を飲んだりしました。特にラボのメンバーが開いてくれたFarewell partyはとても楽しくて、心が熱くなりました。今までBlair labで誰かが卒業する時といえば、lunchにみんなで行くのが恒例でしたが、今回はundergraduateのMarkが家に招待してくれて、彼の家にみんなが持ち寄りで集まり、緩やかな時間を過ごしました。僕は手巻き寿司を準備していきましたが、結構好評でほっとしました。みんなそれぞれが恋人や奥さん、生まれたばかりの赤ちゃんや家族をつれてきてくれて、僕のために集まってくれたことが本当に嬉しくて、このラボに来て本当に良かったと思いました。
 個別に会ってくれた方や、呼んでくれた方にも本当に感謝しています。また、この5年間、いろいろなチャンスがあり、またwebのおかげもあって結構多くの方と知り合うことができました。その方々をビヤホールのSquattersに招待しました。総勢18人とすごい人数になり、以前使えた大きな部屋を使えなかったこともあって、あまり快適な場所を皆さんに提供できなかったですが、それでもなんだかんだわいわいやることができて楽しく終えることができました。集まって下さった皆様、ありがとうございました。

 人に挨拶に行ったり、飲み会が会ったり、家に呼んでもらったりと、たくさんのことをこなしている間に時間があっという間に過ぎてしまいました。最後の日はラボのKoushikに頼んで、部屋の掃除を手伝ってもらい、9時過ぎにようやく片付いて、Landlordに部屋をチェックしてもらいました。結構甘く見てもらって、とくにやり直しもなかったので、カギを渡してKoushikを食事につれて行きました。その後彼を送って、もう一つ荷物の引き渡しをした後、ラボに行き残っていた家のものをラボに寄付するために置いて行き、最後に車を貸してくれた友人にゲストハウスまで送ってもらって、長い最後の一日は終わりました。眠りに着いたのは結局午前2時半で、翌朝5時半に起きて、6時15分にLindseyにピックアップしてもらい、空港へ向かいました。この日は朝からすごく雪が降り、僕ならあまり運転したくなくらいでした。Lindseyと別れてセキュリティーをパスすると、さすがにセンチメンタルになりましたが、とにかく疲れていたので機内に入るとすぐぐったりしてしまいました。でも飛行機は飛ぶのが遅れて1時間程空港で足留めを食らい、コネクションのLAで待っていてくれた、もとBlair labのLaithは焼きもきしていたようです・・・(ほんと待ってくれてありがとう)。慌てて走って行くと、Laithと会うことができました。髪をのばしてすっかり西海岸のかっこいい大学院生になったLaithは、あいかわらず仲良く会ってくれて、ほんのわずかな時間でしたが、楽しく別れの言葉を交わすことができました。そしてLAからJALに乗り、関西空港へ向かいました。これも1時間程遅れて、とってもくたびれましたが、なんとか無事に、夜10時に自宅に帰り着きました。実家では両親が待っていてくれました。くたくたに疲れた身には、暖かいお風呂とお茶が本当に嬉しく、その日はすぐに寝ました。で、翌朝は7時起きで新しいラボに9時に間に合うように出かけて、休みなく次の仕事の開始です! ここから先のことは、あまり留学とは関係ないので、もう書くのは止めにします。次回は、最終回として、Utahですごした5年間を振り返り、出会った人たちとの思い出、留学することの意義や学んだこと、日本へ帰ってきてから感じた逆カルチャーショック、英語のこと、などを書いてみたいと思います。それでは、また次回。

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